2011年4月26日火曜日

ブックフェア「亀山郁夫 文学と社会、生きる力」開催


 2011年4月7日(木)から5月8日(日)まで、リブロ池袋本店書籍館1階のカルトグラフィアコーナーで、本学学長の亀山郁夫先生が選書したブックフェア「亀山郁夫 文学と社会、生きる力」が開催されています。

 小会編集部Kがその模様をレポートします。

 本学の学長室にあったドストエフスキーの大きな肖像パネルも本と一緒に並んでいます(ちなみにこれは売り物ではありません)。大迫力でした。

 亀山先生の著作はほとんど揃っています。旧版の『磔のロシア』(岩波書店)など、いまや書店ではなかなかお目にかけない貴重な単行本なども。もちろん小会から刊行されている『ドストエフスキー 共苦する力』もあります。小会が毎年春に発行している読書冊子「pieria(ピエリア)」も置かせていただいています。ぜひ一度手にとってご覧ください。

  選書の中ではスーザン・ソンタグの本を手にとる読者がもっとも多いようです。カミュの『ペスト』もかなりの売れ行きとのこと。

 最後に、このブックフェアのために亀山先生が寄せた文章をここに転載します。大震災で傷ついた人々におくる熱いメッセージです。


 「人間というのは生きられるものなのだ! 人間はどんなことにでも慣れることのできる存在だ」

 ロシアの作家ドストエフスキーは、かつて、酷寒のシベリアの地でこのように書いたことがありました。シベリアでドストエフスキーが手にした発見とは、「どんな苦しみにも慣れることのできる」人間の強さ、逞しさでした。しかしそれは、あくまでも、苦しみを受ける立場から生まれた苦渋のひと言だったのです。青年時代、彼は、ユートピア社会主義にかぶれ、国家反逆罪の罪を問われて、一度は死刑判決まで受けた過去があるのです。

 今年3月、私たちの日本で、もはや決して慣れることを許さない事態が起こったのでした。慣れようにも慣れることのできない恐ろしい災厄。この、未曾有の恐ろしい事態をまのあたりにして、私たちはいま呆然とし、自信を失い、未来に不安を感じています。しかしその傍らで、生きてあるということのかけがえのない意味に目覚め、生命の「奇跡」に触れた人々も少なくないはずです。しかし、生命は、それ自体ではけっして「奇跡」とはなりえません。深く豊かに「歓び」を感じる心を持ってこそ、生命は真の価値を放つのです。また、「歓び」を経験できる心がなければ、私たちの傍らで傷つき、苦しむ人たちとの豊かな「共苦」の心も生まれないはずです。「歓び」とは、何よりも、心の根源的な震えなのですから。

 そして幸運にして、最悪の現実を免れることのできた私たちに残される責務とは、「けっして慣れない」という決意です。それは、個々人にとっての決意であると同時に、務めであり、試練でもあるのです。そして私たちの魂が、つねに社会の現実との生きた「交感」を保ち、ともに生きる「歓び」を感じつづけていくには、魂の枯渇という事態を何としても避けなければいけません。大きな災厄の時代だからこそ、私たちの一人ひとりが、豊かな「歓び」の発見に努め、魂に確実な潤いを持ち続けなくてはならないのです。

 今回、ここに選びだした300冊の本は、私の「歓び」の軌跡です。私の人生に潤いをもたらし、それぞれの段階において確実に重要な意味をもった本ばかりです。私が生きた60年間は、戦後の日本が、敗戦の混乱をくぐりぬけ、不死鳥のように復活をとげた高度成長時代から、バブル崩壊による大きな幻滅を味わい、長い停滞からようやく立ちあがりかけた時代です。そして、いま、世代を超えて、一つの恐ろしい現実に立ち向かっています。

 全体的な災厄との遭遇という視点からいうなら、かつて私の幼い心が最初にはげしく打ちのめされたのが、11歳の年、小学校の図書館でたまたま開いた原爆の犠牲者たちの写真です。1962年10月のキューバ危機の際には、幼心に、世界が終わりの淵に立ったと思い、恐怖していました。それ以来、私の心は、世界全体に襲いかかる圧倒的な力という観念にとりつかれ、深いペシミズムにかられ、あるいはその無力感と戦ってきたのです。けっして大げさに言っているわけではありません。そしてつねに、人々の苦しみに何も感じなくなる人間の「堕落」という問題について考えつづけてきました。

 そんな私がいま、最高の戒めの言葉としている一節があります。それは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の犠牲者となったサラエボ市民への深い哀悼の思いに発するスーザン・ソンタグの次のひと言です。

 「彼らの苦しみが存在するその同じ地図の上に、わたしたちの特権が存在する」

2011年4月7日
亀山郁夫