昨年の春に出版会と附属図書館の共同企画・編集によって発行した読書冊子「pieria(ピエリア) 未知への遭遇のために」をこのたびWebにアップしました。以下のURLから、ぜひご覧ください。また現在、附属図書館の入口にて今春発行の最新号「pieria 発見と探究への誘い」とともに無料配布しています。お立ち寄りの際はぜひ手にとってご覧ください。なお最新号は秋頃のWebアップを予定しています。
★「pieria」バックナンバー
◎2009年発行「pieria 新しい世界への扉」(創刊号)
http://www.tufs.ac.jp/common/tufspub/pieria/2009_index.html
◎2010年発行「pieria 未知への遭遇のために」(通巻2号)
http://www.tufs.ac.jp/common/tufspub/pieria/2010_index.html
「pieria 未知への遭遇のために」のWebアップのタイミングに合わせ、「外大生にすすめる本」の番外編として「pieria」編集部から外大生に向けていくつかの本をご紹介します。時宜を得た本もあれば、いつの時代であっても普遍的に読み継がれる本もあります。この機会に読んでみてはどうでしょうか。
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「たまにはドイツのことで三題」
①三島憲一『戦後ドイツ──その知的歴史』(岩波新書、1991)
②三島憲一『現代ドイツ──統一後の知的軌跡』(岩波新書、2006)
③三島憲一『ニーチェ以後──思想史の呪縛を越えて』(岩波書店、2011)
「ピエリア」の第三号で“ホネ・ノ・アル新書”という特集を組んだら反響があった。新書は軽い雑誌みたいな本と、いつのまにか相場が決まってきているのに異をとなえたのだが、新書という形式はけっしてそんなものじゃないということを、いろんな出会いの経験によってちゃんと分かっているひとがまだまだ多いのだ。
その“ホネ・ノ・アル”に加えたい候補はあまたあるが、二十年前になる三島憲一の①だってそのひとつだ。ドイツ文学やドイツ思想史という学界のお約束から、一般的な学問イメージまで、なんとなく共有されているステレオタイプを吹っ飛ばすように、具体的な戦争責任や文化的社会的緊張の文脈を書きこんで現代ドイツの思想をしっかり考えてみようとする点で、それは硬派の筋を通していた。それ以前も、抜群のドイツ語運用能力やフランクフルト学派を中心とした見事な翻訳で敬服することが多いひとだったけれど、①は、つねに具体的な文脈のなかで思想的課題を考えようとするかれのもうひとつの資質がずっといい効果を出している。ドイツ語専攻の学生たちに尋ねられた時に、いっとう最初にこれを推薦することにしている。同じ特質は、続編である②にも言える。
ところでその三島氏が、最近③を出した。序章と独立した六つの論考からなる論集であるが、まさに副題にある知的「呪縛」に挑戦して、それを解いていく治療的効果という点で、①からの姿勢は一貫している。ヨーロッパの近現代哲学について行なわれがちな安直な規範化や受け売りにすこしも容赦がない。こうしたものが持ち込まれることで、一方ではありきたりの西洋の没落論が、他方ではナルシスティックな日本文化論がはびこるからだ。たとえば、ニーチェの片言隻句をそのまま大がかりな文明論に拡大してしまうことで、現代の文化状況を嘆いたり、秩序思考に飛びついたりする言説が問題なのだ。三島が強調するのは、ニーチェが生きて格闘した十九世紀末に生じていたのは、カントやヘーゲルの時代から三月革命期にいたる啓蒙の精神が、いっきに委縮して再宗教化し再キリスト教化していた具体的な時代状況だったということだ。そうした論敵の姿が特定できないときに、一般化に走る思想史論は、おおげさな預言者的託宣に変わってしまうか、エキセントリックな民主主義批判や怪しげな日本文化論にそっくり加担するようになる。「抽象的な否定」ではなく、「限定された否定」(ヘーゲル)をなせ、ということだろうか。第二章の「哲学と非ヨーロッパ世界」なども、植民地という他者をどうイメージしているのかについて、ドイツ観念論から現代哲学までの普遍主義的主張に含まれる深刻な死角を指摘する。しかし、だからといって、普遍をめぐる内省をまるごと投げ捨てるのではなく、そのなかに可能性として隠れている批評の力をなおも救い出すことを忘れない。そんなところにも「知性の公的使用」に絶望していない知性としてのかれの本領が発揮されている。なんだかドイツもの三題になってしまったが……。
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綾部輝幸(東京外国語大学附属図書館)
「2010年 私の本棚から」
①ジーン・バン・ルーワン『しりたがりやのこぶたくん』(アーノルド・ローベル絵、三木卓訳、童話館出版、1995)
②池辺晋一郎『ベートーヴェンの音符たち──池辺晋一郎の「新ベートーヴェン考」』(音楽之友社、2008)
③ヘルマン・ヘッセ『わが心の故郷 アルプス南麓の村』(V・ミヒェルス編、岡田朝雄訳、草思社、1997)
番外:バレンタイン・デ・スーザ『そよ風のように生きる──旅ゆくあなたへ』(女子パウロ会、1991)
図書館で働いているくらいなので本好きには違いないが、学生時代と異なり今では自分の好みもはっきりしており、特に新刊を求めてもいないので再読が多くなる。
①近年は息子と絵本を読む時間が楽しい。この絵本は親子の何気ない日常を淡々と描いており、そこににじむ愛情がよい。ききたがりの息子「こぶたくん」への受け答えの中に、さまざまな生命の営みへの慈しみを感じさせる父親の姿。わが子をずっと相手にしていて時にひとりになりたくなる母親の心にも、親になると共感できる。味わい深い絵の中に親子の愛情と距離感について得ることが多く、よく友人への贈り物にする一冊。
②長い年月をいわゆるクラシック音楽を友に過ごしてきた。より深く楽譜を読み取りたいという思いだけは強いが、なかなか道は遠い。この書はそんな思いに応えてくれるような本だ。すっかり耳になじんで当たり前のようになった名曲が実はどんなに非凡であるのかを、平凡な作曲家ならこう書くという例とも時に対比しながら、豊富な譜例を用いて軽妙に語っていく。名曲の魅力を再発見していく読後感は、古くからの女友達の美質に改めて触れた時の幸福感に似ているかもしれない。
③少しまとまった休暇があると、いつも一日をヘッセにあてる。それも風や雲や草の匂いを感じる場所へ読みに出かける。ヘッセを読むことは、読書というよりも音楽を聴くことであると感じる。澄み切った厳しい音楽、孤独でいて何よりも自由な音楽。そしてその音楽は季節とともに刻々と色合いを変えていく。この書はヘッセの転機となったスイス南部移住をモチーフに随筆や詩を編んだものだが、読み味わううちにそんな背景への思いは薄れ、今読んでいる文章の中に流れるものに聞き入ってしまう。
番外:2010年は親しい友の病があり苦しい日々だった。この場にふさわしいかわからないが、慰めとしての書を挙げておきたい。カトリックの助任司祭である著者の言葉を集めたもので、希望・祈り・人との関わり・日々の過ごし方等について、優しく柔らかな語り口の中に深い洞察が心に響く。昔、やはり苦しい時期に人から贈っていただいた本で、改めて縁を感じた。
(2010.12.26)
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竹中龍太(東京外国語大学出版会)
「大学生なら背伸びをしよう」
①市村弘正『増補 小さなものの諸形態──精神史覚え書』(平凡社ライブラリー、2004)
②二宮宏之『二宮宏之著作集1 全体を見る眼と歴史学』(岩波書店、2011)
③今福龍太『身体としての書物』(東京外国語大学出版会、2009)
①20世紀という時代の経験を読み解く思考の痕跡。たとえば、言葉を失うような経験をしたとき、あるいは言葉がじぶんになかなか馴染まないというような状況にあるとき、本書を読むと言葉の感触を取り戻せるような気がする。とりわけ、未曾有の大震災後に読み返すと、圧倒的なリアリティを感じるのは何故だろうか。いつも仕事鞄の中に怪しく潜んでいる。
②これはある時代に固有の歴史学の成果なのだろうか。あるいは「歴史的」な学問的産物なのだろうか。私はそうは思わない。もし仮に、私が編集論なり出版論なりを講ずることになったら、本書をその教科書の一冊にするだろう。今年から刊行がはじまった「二宮宏之著作集」の第1巻。
③編集を担当した手前味噌を超えておすすめする一冊。その文化人類学者はなぜ、書物の森の深奥に分け入ろうとしたのか。そう自問しつつ本書を読み返しながらはたと気づく。そこが未知なるフィールドだから。
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歴史家の阿部謹也さんは『自分のなかに歴史をよむ』(ちくま文庫)のなかで、学生時代の思い出を紹介しています。阿部さんの学生時代の先生は、ドイツ中世史を専門とする歴史家の上原専禄先生。上原先生は「いつも学生が報告をしますと、『それでいったい何が解ったことになるのですか』と問うのでした。それで私も、いつも何か本をよんだり考えたりするときに、それでいったい何が解ったことになるのかと自問するくせが身についてしまったのです。そのように自問してみますと、一見解っているように思われることでも、じつは何も解っていないということが身にしみて感じられるのです。(中略)先生があるとき、『解るということはそれによって自分が変わるということでしょう』といわれたことがありました。」
私も学生時代、文学の先生からこれと同じようなことをいわれた記憶があります。「すぐれた文学は、それを読むと自分が変わるものだ」と。
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後藤亨真(東京外国語大学出版会)
「このところ読んだ本、読み返した本のなかから」①髙村薫『神の火』(上下、新潮文庫、1995)
②ネヴィル・シュート『渚にて』【新版】(佐藤龍雄訳、創元SF文庫、2009)
③ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・アンソロジー』(山口裕之訳、河出文庫、2011)
①島田と日野は、福井県音海の発電所を襲い、原子炉圧力容器の蓋を開けてしまった──。物語の最後にあるこの原発襲撃の場面は圧巻だった。髙村薫は、原発の構造とその盲点を周到に調べあげ(今では馴染みになった原発専門用語も多数出てくる)、島田と日野の二人によって実行される綿密な計画を時系列に、しかも分刻みの緻密さでどこまでも現実的にえがく。読後、この小説を荒唐無稽な架空の冒険譚とはとても思えなかった。髙村が考えた一つの精緻な「計画」と、それを実行できる少しばかり訓練された二つの「肉体」、そして少々の「武器」さえあればこの作戦は実際に遂行できてしまう。本気でそう思えた。招かれざる者たちによって原子炉の蓋が開けられてしまうことは、髙村薫のなかではすでに充分に「想定内」だったのである。3月11日以降、電力会社社員ならびにその関係者、原発研究にいそしむ無数の科学者、そして原発を推進する多くの政治家や官僚たちの「想定」は、たった一人の小説家の想像力にさえも全く追いついていない、と思わざるをえなかった。
②全世界的な核戦争が行われたあとの世界。放射線は地球のほとんどを覆い尽くし、すでに多くの人間は死滅してしまった。人類に残された最後の地はオーストラリア・メルボルン。しかしそこにも死の影はすぐそこまで迫っていた。人類滅亡まで残りあと数ヶ月……。そんな絶望的な世界をえがいた小説。死を目前にした人々のさまざまな生活が描写される。ヤケになり危険きわまりない狂乱のレースに参加し、案の定凄惨な事故死を遂げる者たち。一方、ささやかな日常生活を営み続けながら最後まで生き、やがて静かに死を迎える者たちなどなど。免れえない災厄を前に私だったらどう考え、どう行動するか? 読んだ後、そう考えさせられた。
③それでも地震、津波、原発事故、そして亡くなった多くの人々が、徐々に記憶から薄らいでいく。そしてそのことに気がつき少なからず愕然とする。そんな時はベンヤミンの「歴史の概念について」を、なかでも「Ⅱ」と「Ⅸ」の二つの断章を何度も読み返した。
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