2010年11月17日水曜日

『パンとペン──社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』──M編集長の読書日誌②


※11月17日、午後1時37分。
 黒岩比佐子さんが永眠されました。
 ご冥福をお祈りいたします。 

 黒岩比佐子著 
『パンとペン──社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』
 講談社
四六判・上製、446ページ、定価:2,520円(税込)


 パンは暮らし、ペンはもちろん言論である。それで売文とは耳障りだ。まして公然と生業にするとは、どうも人聞きはよろしくない。そんな風に感じるむきがあったとしても、本書を最後まで読んでみると、きっとこの言葉をめぐってまったく違った感受性があることに気がつくだろう。

 この本は、幸徳秋水、大杉栄とならんで、日本の初期社会主義にとって欠かすことができない存在であった堺利彦(1870~1933)の、それもなかなか個性的な評伝の試みである。著者は初期社会主義研究の本道に敬意を表し、その成果を軽やかに活用しながら、しかしそれとは違って、これまではあまり重視されてこなかった1910年の大逆事件からの約10年間の、「生き残った」ひとびとの生き方のほうに光を当てている。ちょうどこの「冬の時代」に、堺利彦は、幸徳秋水ら12名をでっちあげで殺害された憤怒と絶望を胸底に沈めて、あえて「売文社」を設立した。それを通じて祝辞や論文などの怪しげな代筆から各種の翻訳や編集までを引き受け、堺の天分であった文章力で縦横に言葉の宇宙を広げていくばかりでなく、志あって雌伏するひとびとにも居場所と仕事を作り出したのだ。これは、いま風にいえば、翻訳事務所と編集プロダクションとゴーストライターを兼ね備えたような、柔軟にして機動的な仕事場であり、しかもなお社会主義の精神の隠れた拠点であった。

 社員たちにはたえず尾行がつく。四六時中監視される。理不尽な迫害や無理解は、今日とは比べ物にならない。そんな時代に、堺の配慮と差配によって、命を狙われ窒息させられていた鬱屈する知性が、言葉の力でなんとか生き延びていく可能性が開けたのだった。だからといって、それは節を屈し、良心の核を放棄してしまうことではない。本当に時代におもねり、国家社会主義者になったようなひとびととは、あくまでも違う生き方である。著者の手で生き生きと描かれる社会主義者とかれらをとりまく群像は、「売文」がレッキとした抵抗であり、筋の通ったこの時代のなかでの闘い方であるのだということを教えてくれる。しかもそこには、なんとも言い表しようのないユーモアと諧謔がある。イデオロギー対立や内部対立がつきものの左派運動史に比べて、ここに描かれる社会主義者たちの姿のなんと魅力的で人間的なことだろう。

 書くこと、書き続けること、そのことのリズムと熱情が、特有の迫力をもち、多くのひとびとを勇気づけ、しかも同時に人間のありのままの実相を照らし出している。著者の目のつけどころはさすがである。売文社の活動を読み解くことによってこそ、社会主義者・堺利彦の特性と、かれがよりよき世界のための運動のすそ野と厚みをどのように維持し発展させようとしたのかが、実によく見えてくる。書くということは素晴らしい。おそらく本書は、その書くという営みの可能性に賭けてきた傑出した「物書き」である黒岩自身の生き方にも、そのまま重なってくるような自己確証の行為であったのだろうか。しっかりと心に残る本であった。
(M)