昨年11月25日(金)、『〈アラブ大変動〉を読む──民衆革命のゆくえ』の編者である酒井啓子先生(東京外国語大学教授)と社会学者の吉見俊哉先生(東京大学教授)をお招きし、ジュンク堂書店新宿店で刊行記念トークイベントを開催しました。集まった聴衆は、酒井先生と吉見先生の力のこもったお話に、熱心に耳を傾けていました。以下にそのトーク内容をご紹介します。
第一線の中東政治学者と社会学者は、このたびの民衆革命をどのように見ているのか? そもそも「アラブの春」とはいったい何だったのか? そして今後を占うキーポイントとは何なのか? それらについて考えるための手がかりが、ここにはたくさん盛り込まれています。どうぞご覧ください。
酒井啓子(さかい・けいこ)【イラク政治史、現代中東政治】
1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。東京外国語大学総合国際学研究院教授。アジア経済研究所を経て、現職。著書に『イラクは食べる』(岩波新書、2008)、『〈中東〉の考え方』(講談社現代新書、2010)ほか多数。
吉見俊哉(よしみ・しゅんや)【カルチュラル・スタディーズ】
1957年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。東京大学大学院情報学環教授、東京大学副学長。著書に『都市のドラマトゥルギー』(弘文堂、1987/河出文庫、2008)、『天皇とアメリカ』(共著、集英社新書、2010)、『書物と映像の未来』(岩波書店 2010)、『大学とは何か』(岩波新書、2011)ほか多数。
A5判・並製・237頁・定価:1575円(本体1500円+税)
ISBN978-4-904575-17-8 C0031
ISBN978-4-904575-17-8 C0031
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酒井啓子:このたびのアラブの民衆革命には社会学的に見ても重要な問題がたくさん盛り込まれていると思っています。だからこそ社会学者の吉見俊哉さんに、この『〈アラブ大変動〉を読む──民衆革命のゆくえ』を読んでいただき、ぜひともお話をお聞きしたいと以前から思っていました。このたびのトークイベントが実現し、とても嬉しく思っています。じつは吉見さんは、私の大学の一年先輩で、見田宗介ゼミでご一緒していました。あの当時はともに勉強し、議論し、遊んだりもした仲でした。
吉見俊哉:ゼミ時代が懐かしいですね。今日はすこし同窓会的な雰囲気もあるのですが(笑)。
類似しているアラブとアジア
吉見:さて、この『〈アラブ大変動〉を読む』を酒井さんにお送りいただきさっそく読みました。非常に面白かったです。私はアラブに関してはまったくの素人で、ほとんど知識がありませんでした。チュニジアから始まりエジプトへ、そしてその後世界各地へと革命の波が広がっていくなか、テレビやネットなどを通してさまざまな映像が流されました。しかし、それを何度見てもこのたびの革命は正直よく分からなかった。何かすごいことが起こっているということは、当然感じていました。けれども、私のような素人にはテレビの解説を聞いても十全には理解できないし、ネットの映像は断片的すぎる。その実態がいまいちつかめないままでした。
日本に住む多くの人間にとって、北アフリカや中東はやはり遠い。それは物理的な遠さももちろんありますが、感覚的な遠さもあります。韓国や中国でしたら、日常的に情報は流れてくるし、そこで起こっている事態を常に考える機会があるので近さを感じます。けれどもアラブはこれまで非常に遠かった。
この本を読んでまず感じたことは、そのアラブがじつは近かったということが分かったことです。アジアや日本や私たち一人ひとりが抱えている状況や問題と、アラブが抱えているものとが思いのほか近いのです。むしろ似ているとすら感じました。まずはそのことについて二点ほどお話したいと思います。
まず一つは、何か超越した力によってすべてが見られている社会がいよいよ生まれつつあるということです。衛星放送テレビなどの大手メディアによって見られている、というだけではなく、普通の人たちが街のあらゆる情報を、ネットを自在に操りながらフェイスブックやツイッターなどで流していく。それが何か決定的で新しい状況を開いていっている、そのグローバルな情報社会化が根底にあると感じました。それは私たち日本人が置かれている状況にとても近い。こうした状況がなぜ、どのようにして北アフリカや中東地域で起こったのかが、この本にはくわしく書かれてあります。こうした状況が、おそらく日本とは比べものにならない速さで進んでしまった。大局的に見ると、これらは日本における反原発デモや、アメリカで起こっている格差社会に対するデモにも通ずるところがあると思います。
そのときに思ったことがあります。2003年のイラク戦争のときはメディアが一つの大きな壁となっていました。膨大な量の映像はイラク戦争のときに流れていましたね。でも映像が流れれば流れるほど、どんどんその事態の本質が見えなくなっていきました。中東で何が起こっているのかが、メディアの壁によって逆に遮蔽されていると私は感じていました。今回はそのときとは何かが違う。では、何が違うのか、どこで変わったのか、あるいは何も変わっていないのか……。そういったことも含めて日本にとても近いと感じました。
もう一つはアメリカとの関係です。東アジアにいるとアメリカの存在は決定的です。私たちは日々そのことを感じています。それに比べ、中東は根っからの反米なのだろう、とこれまでは思っていました。しかしそうでもないのです。たとえばムバラクが武力弾圧をしなかったことの理由の一つにアメリカの視線がありました。反米を唱えつつも一方で媚びているところがあった。そういう他者としてのアメリカがこの本を読んでよく分かりました。リビアは開き直って逆に猛烈な敵対行動に出ましたが、どちらにしてもアメリカの存在が中東全体に非常に濃い影を落としていることが分かりました。そうするとアメリカとの距離という面で、そのあらわれ方は異なりますが、中東と東アジアはやはり似ているのかもしれない。この本を読んで、まず真っ先にこの二つのことに気がつかせてもらえました。これは私にとってとても大きな収穫でした。
酒井:編者として私が意図していたことも、そしてこっそりと忍ばせていたことまでも鋭く捉えていただきありがとうございました。中東研究をしていると、なぜ日本とこんなに隔たっている地域の研究しているのだ、と言われることが多いのですが、実際に関わってみると中東と日本の置かれている歴史的立場というのは非常に類似しているのだな、と気がつきます。欧米との距離感もそうです。アラブ人研究者はそのことに気がついていますから、日本が辿ってきた歴史からわれわれは学びたいのだ、とよく言います。しかし私たち日本人はそのことに対してどうもピンときていない。
吉見:たしかにそうですね。中東は日本との近さを分かっている。しかし日本はその近さをあまり分かっていない。片思い的なところがありますね。
転換した映像の機能
酒井:このたびの革命で日本の中東研究者がまず驚いたのは、これだけの人々がいったいどこから集まってきたのか? ということでした。中東はどの国も独裁体制です。ゆるやかな独裁もあれば、厳しい独裁もあるのですが、いずれにしても民衆は自由に街中に出て、発言をすることは許されません。にもかかわらずたくさんの民衆が突然あらわれた。出てきた民衆は「このままでは食えないぞ」というとてもプリミティブな動機で集ったのです。何十万、もしかすると何百万人も集まったのではないか、とも言われています。
私がこの一連の流れのなかで謎だと感じたことがありました。本来、独裁政権下でこのように大勢の人間が集まることは非常に恐ろしいことなのです。弾圧の対象になってしまいますから。これまで民衆はとても怯えていました。
この革命は、エジプトにいた一人のブロガー青年ハリド・サイードが警察の不正を告発したところ、拷問のすえ無惨にも殺されてしまったことから始まりました。彼の傷ついたデスマスクがネットにも流れました。これまでであれば、民衆はこの映像に恐怖します。このような行動をとると弾圧され、殺されかねないと怯えるのです。映像はそういった形でこれまで機能していました。しかし、これがどこかの段階で切り替わり、むしろ民衆が立ち上がる動機となったのです。そこが大いなる謎なのです。切り替えた張本人は、ワエル・ゴニムというのちにノーベル平和賞の候補にもなったグーグル社に勤める青年でした。彼はこの事件を聞いてすぐに「われわれはすべてハリド・サイードだ」というフェイスブックを立ち上げました。「みんなこうなる可能性がある」「このままでよいのか」ということを訴えたフェイスブックです。これがきっかけとなって彼自身も二月のはじめに政府に拘束されます。けれども、もともと活動家ではありませんでしたから、まもなく釈放されます。彼は釈放されたあとにテレビで記者会見をしました。そのときに男泣きするのです。アラブ人男性はかなりマッチョなので、一般的に男性はあまり泣きませんし、ましてや公衆の面前で泣くということはよっぽどのことでないとありません。しかし彼は泣きました。この彼の行動は、大衆の義理人情に強烈に訴えかけ、たくさんの同情が彼に集まりこの運動のリーダーになりました。
ここで吉見さんにうかがいたいことがあります。これまで恐怖を煽っていた映像が、逆に人々を立ち上がらせた。これはいったいどういうことなのでしょう?
新しい監視社会とエンターテイメント
吉見:一般論でしか答えられないのですが、言論や政治行動に対して統制の強い社会で、これまでは写真に撮られたり監視カメラに映しだされることを嫌い、非常に敏感になっていました。しかし、どこかで自分の写真や映像やさまざまな出来事がフェイスブックやユーチューブに流れていくことに対して、それが危険ではなく、むしろそれこそが可能性なのだ、というふうに意味が転換していく瞬間があったのではないかと想像しています。自分たちが映像化されることは、統制の手段にもなるけれども、運動の媒介にもなる。それは、今回の反政府運動はもちろん、他の形でも起こっているのかもしれない。
90年代初めのイラク戦争のときは、まだ誰もがケータイのようなネットと直結する小型のカメラを持っていたわけではありませんでしたよね。
酒井:中東でケータイが流行りだしたのは、1990年代の半ばくらいです。ネットもそうです。しかしながらこの当時はまだ人口の1パーセントにも満たないような利用率だったと思います。お金持ちのアラブ諸国のなかには、10年前から人口の1割以上がネットを使っていた国もありましたが。どちらにしてもみんながみんなPCを持ち、ネットに通じているという時代ではまだありませんでした。
吉見:日本で考えると、90年代の後半には、NGOやNPOなどもともと精力的に政治運動にかかわっていた組織が、パソコンとネットを利用することでどんどん繋がり合い、運動を拡大させていくということはありました。けれども誰もがケータイのようなハンディなネット端末を持ち、ブログなりツイッターなりフェイスブックなりを利用しながら情報を流していくというような状況ではなかった。それが2000年代、どこかで変わっていった。
その変化は、当初は反政府運動といったような形では発揮されないのかもしれない。今回も、最初にデモが広まっていったときは、反米つまり反イスラエルのデモだったので、政府もかなり大目に見ていたのではないでしょうか。しかしそれが一瞬にして反政府デモに変化していく。日本とはもちろん中身はまったく別ですが、人の集まり方、繋がり方、そしてカメラや映像の果たす役割などは似ていることが中東にもあったのではないかと思います。
酒井:違う目的で集まっていながら、行動が変わっていってしまったことの例としてもう一つ面白いエピソードがあります。90年代中盤から衛星放送メディアが広がっていきました。その代表格は皆さんもよくご存じの「アル=ジャジーラ」なのですが、じつは他にもいろいろな衛星放送局が設立されていて、報道番組で有名な「アル=ジャジーラ」もさることながら、こうした他の衛星放送局のやっているエンターテイメント番組がすごく人気なのです。特に素人参加型の歌番組がものすごく盛り上がっています。この番組にはいろんなアラブ諸国の歌い手があらわれます。ですからシリア人の女の子とサウジ人の男性が最後に競り合う、ということも起こりえます。そうなったら、もう国をあげての応援合戦です。その盛り上がりを司会者がさらに煽るのですが、その煽り方や人々の応援の仕方、スローガンの立て方が、「アラブの春」にそっくりなのです。ナショナリズムを高揚させて、いっせいにみんなで集まり、行動させる。じつは、このようなことを芸能番組からも民衆は経験していました。
吉見:この本でも紹介されていますが、こうしたエンターテイメント的な高揚の雰囲気というのは、本の中で紹介されているいくつかの映像を見るとすぐに分かりますね。エンターテイメントと政治運動が繋がっている。
デモの印象的なシーンを編集し、音楽をつけたビデオ作品
「新たなエジプトの誕生」と題したメッセージビデオ
スローガンに曲をつけた歌
ネット上で大ヒットした歌「自由の声」
メディア化する世界
酒井:「アラブの春」の若者と自爆テロをするような若者とでは、その質はまったく異なりますが、一つ興味深い共通点があります。それは、自爆テロをするような若者もブログというメディアにメッセージを書きつらね、場合によっては遺書まで残していたという点です。誰も知らないところで命を絶ちたくない、何も残さずに命を失いたくない、というふうに思った若者たちが、きっと誰かが見ていてくれて、おそらく後世に伝えてくれるであろうと期待し、ブログにメッセージを残していたのです。こうした役割をソーシャルネットワークなどのメディアが担っていたことは、良い意味でも悪い意味でも非常に大きなことだったと思います。
吉見:9.11のとき、そもそもアルカイダはワールドトレードセンターへの突撃のシーンが全世界に流されるであろうことを前提としていました。世界中に見られている、あるいは世界中が映像化されている、ということが大前提だったのです。それがなければあのテロはありえなかった。90年代くらいから、映像あるいはビジュアルなメディアと私たちの政治や運動などとの間の関係が決定的に変わりはじめました。
私がメキシコに滞在していた94年1月1日にメキシコは北米自由貿易協定(NAFTA)に参加します。それとまったく同じ日にメキシコ南部のチアパスで、NAFTAに反対する先住民を中心とした反政府グループ「サパティスタ民族解放軍」が反乱を起こします。これまでは制度的革命党(PRI)が支配していて、アメリカの経済圏からは一歩距離を置いていたのですが、その経済圏に完全に巻き込まれることになりました。93年の終わりくらいから国民も、それでよいのだ、と考えるようになっていきました。これで自分たちもアメリカのような暮らしができる、と皆が手放しで喜んでいました。それに対して「サパティスタ民族解放軍」が、本当にそれでよいのか、と問うたのです。そのとき、運動の指導者であったマルコス副司令官は、メディアへの露出の仕方が非常にうまかった。じょじょにメキシコ国民の視線を自分にひきつけていって、世論を変えていきました。彼はもともとジャーナリストでしたから、どのようにメディアに露出すればよいのかを熟知していたのです。アルカイダも暴力的ではありましたが、しかしメディアを強く意識していた。ですから90年代にはすでにこうしたメディアを活用した政治的な運動は起こっていたわけです。しかし、それはある意味でプロフェッショナルなアクティビストによる運動でした。けれどもいま起こっていることはそのようなノリでは決してありません。素人参加番組から政治運動や社会運動になっていったような雰囲気があるのです。これは大きな転換です。
われわれは常に見られている──欧米のまなざし
酒井:この一連の運動に使われたシンボルマークがありました。私はこれを「鉄拳」と呼んでいます。これにはもともとモデルとなったマークがありました。それは1999年から2000年に反ミロシェビッチ運動を起こした学生たちが使ったマークです。要するにそれをまねたわけです。ここからも分かるとおり、アラブ特有の運動形態では決してありません。反ミロシェビッチ運動のときに強く意識されたのが、世界の市民運動家に理解を示してもらえるような分かりやすさと楽しさと非暴力でした。欧米型の人道的な運動ということを意識していました。先日から盛んに行われているニューヨークのデモもこの鉄拳マークを模したものを使っています。欧米の市民社会が何を気に入るか、どういうパターンだったら理解を得られるか、ということをものすごく意識しながらやっているということが分かります。BCCとかCNNのニュースを見ていると、インタビューされているデモ隊が、いつもは当然アラビア語を話しているはずなのですが、綺麗な英語でしゃべるんですよ(笑)。これも欧米を強く意識していることを示す要因として挙げられると思います。
衛星放送メディアから情報のみを受け取っていたときまでは、あくまでもメディアとの関係は一方通行でした。そしてそのほとんどが欧米メディアからの情報でした。ところが今はユーチューブやフェイスブックなどによって自ら発信し受信できる時代になった。そしてそれとともに、われわれは常に欧米社会に見られている、という意識がより強くなっていった。そういったところがこのたびの転換の重要な要素の一つだったのではないでしょうか。
吉見:それには二つの要因があると思います。一つは、90年代後半からの社会運動全体にいえることだと思います。それは国民国家を挟み撃ちにしてしまう、ということです。要するに、反政府運動であれ、自然保護運動であれ、人権運動であれ、国家と対立した場合、これまでだったら潰されてきたものが、90年代後半から国際機関やグローバルなメディアネットワークとそれらの地域運動とが繋がりはじめました。世界的な世論に訴えたり、国際機関の勧告などで訴えることによって、国民国家を飛び越えて頭ごなしに各国の政府に働きかけるようになりました。そして政策を変えさせていく。そういうことが世界中のあらゆるところで起こりはじめました。
もう一つは、この本を読んで思ったことなのですが、アメリカというものを考えたときに日本に日米安保体制があり日米軍事同盟体制があるのと同じように、中東においてもアメリカの軍事プレゼンスがやはり大きいわけです。中東の政府が強力な軍事弾圧が出来ないのは、その横にはアメリカの軍事力が圧倒的なものとしてあって、そこと折り合いをつけていかないと何も動かないからです。そういったリアリティを彼ら自身が持っているわけです。そこも東アジアとアラブは非常に似ている。そういう状況にアラブがなっていったのにはどういった要因があるのですか?
アメリカがついにやってきた──加速する反米感情
酒井:アラブ諸国における反米意識のなかで決定的な事実は、アメリカがイスラエルを支えつづけているということです。本来ならば他のアラブ諸国は、イスラエルとも同じような力関係でネゴシエーション出来るはずなのに、アメリカが後ろに控えているために、辛酸をなめている。つまり、「イスラエルとそれを支えつづけるアメリカとのけしからん関係」という認識が問題のベースにあります。しかしながらある時期までは、それほど強烈な反米ではありませんでした。では、どこから始まったのか。それは91年の湾岸戦争です。第一次世界大戦後のイギリスは、実際に部隊を引き連れ、植民地である中東を統治していました。しかしアメリカは現地には行かずにコントロールしていた時代が長かった。むしろ中東のなかに入っていって巻き込まれ、死者が出ることを嫌がっていました。それが湾岸戦争のときにはじめてサウジアラビアに入っていった。これには中東は驚きました。とうとう来てしまったか、と。そのあとアフガニスタン戦争があり、イラク戦争が続きますね。あんなにも怖れていたアメリカがいま実際にやってきた。ここが今にいたる反米意識の原因だと思います。
軍事的なプレゼンスだけが脅威なのか、それともそうではないのか。アメリカは間接的にさまざまなことを支配しています。そのことがアラブ人の意識のなかに非常に根深くあるのです。これは、アメリカ陰謀論というのが、中東でたくさん出回っていることからも分かります。アメリカのCIAは常に何でも見ているわけではないとは思うのですが(笑)。エジプトに地震があるとアメリカとイスラエルが地下核実験をおこなったからだとか、何か災厄があれば、何でもアメリカとイスラエルのしわざである、という発想が強い。もちろん軍事基地など目に見える軍事的プレゼンスもありますが、それよりもむしろ間接的に支配されてしまっている、という意識の方が強いように思われます。
吉見:そういったところも日本と似ていますね。
酒井:中東の人々にとって日本というのは、西欧近代化との争いも含めたさまざまな経験があり、その経験は中東にも活かされるのではないか、と思っています。
吉見:ブッシュがイラク戦争のときに、日本の統治はうまくいったからそれを持っていこうというようなことも言っていましたね。
酒井:ブッシュはそう考えていたかもしれません。けれども中東の人々は、アメリカに木っ端みじんにやられながらも日本文化を維持しつつ、独自の発展を遂げた東洋の国、日本、といったイメージなのです。中東の人が日本に来たときによく言う感想は、コーラもあまり売っていないし、よく分からない緑茶ばかり飲まされるので、日本人は独自の文化を維持しているに違いない、と思うわけです。ところが、議論をしてみるとそれほどアメリカとの関係にジレンマを感じているわけでもないし、そんなに強い反発も持っていない。なぜ日本人は反米意識がないのだ、といつも私は言われています。
逆に中東に行くと、あんなにも反米を叫びながらも朝から晩までコーラを飲んでいるし、マックに行ってはハンバーガーを食べることが一種のステータスシンボルだったりする。さらには流暢な英語もしゃべるし、ハリウッドを目指す若者もいる。アメリカに対して日本と同じようなジレンマを抱えていながらもこのギャップは何なのでしょう。
形づくられた親米感情
吉見:はっきり言えることは、日本の場合は社会意識として親米なのです。イラク戦争のときですら7割近い人がアメリカに対して親近感を持ちつづけた。70年代から現在にいたるまで日本人の親米意識というのはほとんど変わっていないのです。一方、中国への意識は違います。パンダが来たころの好感度は高かったのですが、中国が力をつけてくるにしたがって、どんどん嫌中になっていきます。
その要因として挙げられるのは、50年代から60年代にかけて日本のなかにある軍事基地は沖縄に移され、軍事的暴力としてのアメリカは、大都市圏、首都圏にいる人間にとっては非常に見えにくくなったという点です。そしてその後アメリカは消費文化や欲望の対象となっていった。
もう一つ、これは私の勝手な仮説です。戦前、日本はアジアを侵略する帝国でした。つまり植民地だったわけではなく、むしろ植民地をつくっていった側だった。そして戦後それがどうなっていったかと言うと、アメリカに負けテイクオーバーされたわけだけれども、その過程において日本はアジアのなかでの帝国的な位置が維持されたのです。なぜアメリカに対して親近感を持ちつづけたのかと言うと、経済的にも政治的にも東アジアに対しての侵略を考えなくてもよいようにさせてくれて、なおかつ東アジアのなかで少なくとも80年代くらいまでは中核的な立場を維持させてくれたからなのです。それは日本において何を意味したかと言うと、戦前からの連続性を維持させてくれたということです。これは、他の国々に支配され植民地化されていた国々が戦後独立し、やがてアメリカの経済圏や軍事圏に入っていく、といった場合とは違うのだと思います。
アラブ諸国はヨーロッパの植民地主義にこてんぱんにやられて、ようやく独立したにもかかわらず、その向こうにはまだアメリカがいた。
酒井:いまのお話ですごくクリアになったのは、やはりイスラエルの存在の大きさですね。
吉見:おっしゃるとおりです。
酒井:イギリスやフランスが植民地支配の遺恨としてイスラエルを残していった。そのイスラエルは植民地支配を引き継ぐような形でまだあそこにいる。だから非植民地化されたにもかかわらずエジプトなどの国々は、まだ植民地的な状況を乗り越えられない。つまりその裏にアメリカが厳然と立っている。
吉見:この問題を東アジアに置き換えると、日本はイスラエルそのものであるとなります。
酒井:なるほど、今後中東の人に聞かれたら、日本は東アジアのイスラエルのようなものです、と答えればよいわけですね。
革命の先にある未来が問われる
酒井:ここ最近も日米地位協定の問題が出てきました。これがなぜ議論になったのかを、私はこう考えています。
今年(2011年)の年末にアメリカがイラクから撤退するという話が持ちあがり、イラク政府は、アメリカにいなくなられると政権が揺らぐのである程度は残ってほしい、しかし立場上残ってくれとは口が裂けても言えない、といった矛盾した問題を抱えていました。この問題のなかでもっとも衝突したのが、米軍あるいは雇用している警備会社などが、イラク人に対して事件を起こした際、どちらが裁判権を持つか、という点でした。それをイラクは、裁判権はナショナリズムの要だと突っぱねた。突っぱねられたことによって、すべて軍隊を撤退させると、アメリカは決めてしまいました。イラクの本音を言えば、困ったな、といった感じのはずです。しかし、この突っぱね方は日米地位協定に対する日本の対応よりも鋭いものでした。
この日本のアメリカに対する押しの弱さが、中東の人たちには許せない。よい意味でも悪い意味でもアメリカに対して主張できないところが、中東の人々の日本に対する大きな疑問なのです。ここには、アメリカが日本に帝国を維持させてくれた、という以外の理由もあるように思います。
吉見:まず、沖縄は声をあげています。それは目の前に暴力的な他者としてアメリカが見えるからです。沖縄は、いろいろと開発経済の問題や公共事業の問題などはありながらも、はっきりと主張していると思います。しかし、東京に近づけば近づくほど、沖縄に米軍基地がこれほどあることは意識されにくくなり、被占領者としての意識もなくなっていく。そのため日米安保、そしてそれ以後の歴史にしても高度経済成長期の日本が、アメリカに支配されてきたという意識はないのではないでしょうか。むしろ、アメリカのおかげで独立し、世界の一流国に返り咲いたのだと考えられている。
先ほどエジプトで反米デモがいつしか反ムバラクになっていったという話がありましたね。日本においても50年代の後半くらいまで、反基地闘争や広島、長崎、第五福竜丸の三回にわたっての被爆に対しておこなわれた原水爆禁止運動などが広がっていったことがありました。ところが60年代の安保にいくときに反岸政権になっていった。そしてそこから高度経済成長に一気に向かっていく。
反米や反イスラエルといった流れが、反ムバラクになっていった。その先はいったい何なのでしょう。たしかにムバラクは去りました。それからカダフィは死んだ。独裁者が消えたからといって、権威主義的な体制やアメリカの支配やそれらをつくり出していった構造が消えたわけではありません。むしろ、この本のなかにも書いてあるとおり、彼らはかつてアメリカ的なあるいは資本主義的な世界の支配体制に歯向かい、むしろアラブの独立のために反米、反植民地主義と戦っていた闘士として登場し、権力を得ていった人たちでした。その彼らが最終的には倒れていったということは、その先にあらわれるのは何であるのか、という大いなる問いがありますね。
酒井:それは、これからアラブ世界全体が抱えていく問題なのだろうと思います。すでにエジプトでは起こっています。要するにパンと失業の問題です。デモに参加する彼らからしてみれば今の経済状況を何とかしてくれ、ということです。反米などとかは置いておいて、ものすごく現実的な部分が問題として表面化しています。これ自体はとても健全なことだと思っています。
アルカイダやビンラディンは、理想のイスラム国家をつくるという理念で突っ走りました。民衆はそっちのけで訳の分からない理念を戦わせながら戦争をやっていたわけです。しかし、アラブの人たちは、そんなことをやっている場合ではないだろう、と気がつきはじめたのです。これが今回の「アラブの春」の根元にあったのではないかと思います。つまり、理想や理念はとりあえず脇に置いておいて、目の前のパンと目の前の失業をまず何とかしてくれ、ということです。
グローバルな政治経済の状況は一国でどうなるものでもない。そのなかにはアメリカやヨーロッパの存在が厳然とある。そうした状態で最終的ににっちもさっちもいかなくなり、やはり裏で糸を引いているのはアメリカだ、といった状況になったとき、またしてもグローバルな空中戦がおこなわれるのではないか、という懸念も一方でもっています。
このたびの「アラブの春」が、西洋の考え方にのっとった人道的なある意味で美しい平和市民運動として発展していくのか、それともやはり昔ながらの血なまぐさい革命に終わってしまうのか。私はどちらにも転ぶ要素があると思っています。エジプトが次の段階へどのように進んでいくのかによって未来が見えてくる。私はそう考えています。
デジタル空間における公共性と記憶
吉見:最後に一つお話したいことがあります。それは、『〈アラブ大変動〉を読む』を読んでいるときに私が実践した方法です。この本の正しい読み方ともいえるかもしれません(笑)。この本を読みながら、その手元にネットに繋がったPCを置いておき、こういったウェブサイトもあるのだ、と逐次見ながら読み進めていく。当時なんとなくユーチューブなどは見ていましたが、もう一回さまざまな映像やサイトを見ることになります。そうするとより理解が深まります。
こうしたサイトはまだかなりの部分が残っています。ですからこの本で紹介されている映像は今も見られるのです。それはじつはものすごく重要なことです。一年近く経っても「アラブの春」に関連して起こった膨大な映像や情報がウェブサイト上に残っていて、その記憶が公共化されていて、もう一度たどりなおせる。そしてそれらが次のいろいろな出来事に繋がっていく。しかし、それを残しつづけていくには、困難がともなう。つまり映像が記録されて、それが横に広がっていった、ということだけではなく、それをいかにストックして公共的な開かれたある種のアーカイブとして保存しつづけるか、ということが重要になっていきます。
社会的な記憶の構造がメディアの変化によって劇的に変わりはじめています。その過渡期である今こそしっかりと担保していくことが大切です。現在は、こちらのサーバーやあちらのサーバーなどいろいろなところに映像やテキストデータが保存され維持されています。しかし、非常に強力な21世紀のCIA(笑)のようなものが現れて、本気になってそれらの記憶を消していこうと動きだしたら、すべてはデジタル空間で起こっていることですから一瞬で消えてしまいかねません。ですから、いまこうして私たちがデジタル空間から受け取っているものを、パブリックな形で残していき、開かれたアーカイブにして繋いでいく必要があります。
酒井:これまでの歴史はある種のオーソリティが残していくものでした。これが「正史」と呼ばれるものでした。けれども、これだけ情報が溢れ、誰もが発信し受信できる世の中になり、その「正史」と呼ばれていたものが揺らいでいるように思います。つまり個人が歴史あるいは記憶を形づくれる時代になりつつあるのです。しかしながらいつ何時それらが消されるか分からない。そこをシステム化していくのか、それともこのままアナーキーな状態で続いていくのか……。
吉見:まったく同じことが、東日本大震災や福島第一原発事故においても言えると思います。
酒井:たしかにそうですね。「アラブの春」で起こったことと日本における反原発運動などは、じつはかなり密接に繋がっていると言えるのかもしれません。
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