2010年10月1日金曜日

『藤田省三セレクション』
  ──M編集長の読書日誌①



市村弘正編『藤田省三セレクション』
平凡社ライブラリー
HL判、440ページ、定価1,680円(税込) 


 平凡社ライブラリーに加わった『藤田省三セレクション』を読んで、あらためてこの戦後啓蒙の鬼っ子の思想に感心した。編者である市村弘正の選択も心憎い。
 冒頭に置かれている「天皇制国家の支配原理 序章」(初出は1956年)は、一読して「超国家主義の論理と心理」の丸山眞男の、だから正真正銘の近代主義のスタンスそのものだなあ、と思う。「厖大なる非人格的機構としての官僚制の、膨大なる人格支配の連鎖体系への埋没、客観的権限の主観的恣意への同一化、「善意の汚職」と「誠実なる専横」、かくて天皇制官僚制は、近代的なそれから全く逸脱してゆくのである」という結論は、この時点の藤田が天皇制国家の問題を、近代そのものの問題として考える回路を持っていなかったことを示している。
 ところが、かれがすごいところは、そこから「或る喪失の経験──隠れん坊の精神史」(81年)あたりを経て、近代に対するさらに深い疑念や絶望にぐんぐん降りていくことである。だから丸山シューレの「鬼っ子」と呼びたいのだ。「或る喪失の経験」のなかの「隠れん坊」や「おとぎ話」の読解には、今から見ると、80年代ポストモダンとして囃された文化人類学の記号論の影響がはっきりと見てとれる。それが、戦後の喪失について考察する際に、あるべき近代とその逸脱という近代主義的二項対立ではない想像力にまで飛躍させたのかもしれない。また、なによりそれが、転向という知識人のドラマ(「理論人の形成──転向論前史」)や、左翼ラディカリズムの突出と独善(「「プロレタリア民主主義」の原型──レーニンの思想構造」)よりも、戦後精神史にもっと強い規定力を持った高度経済成長の消費文化を、正面から思想の問題として思索するように、藤田に強いたのかもしれない。そこから、「「安楽」への全体主義──充実を取り戻すべく」(85年)という瞠目すべき問いが可能になったのだ。現在の新自由主義状況について正面から思索しようとするためには、反グローバリズムの新しい議論もさることながら、すでに80年代から「新重商主義」という概念で資本による文化的、思想的な浸食の動態を考えてきたこの読書人の仕事に立ち戻ってみることも大切だ。

(M)